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【世界史】シチリア島から地中海・イタリア周辺の歴史を学ぼう

シチリア島は地中海に浮かぶ最大の島で、イタリアのカラブリア半島(いわゆるブーツのつま先部分)のすぐ南西にあります。

その歴史・文化は、は多くの民族が次々と流入したことによって層をなすように形成され、「文明の十字路」「地中海の十字路」などとも形容されます。

シチリア島の歴史を眺めることで、地中海周辺やイタリア周辺の歴史の流れを理解しやすくなりますよ☆

先住民族とフェニキア人とギリシア人

概要

シチリア島には先住民族もいましたが、紀元前10世紀頃からシクリ人(シケル人)が入植し、これが「シチリア(シケリア)」の語源になったと考えられています。

紀元前8世紀頃からはギリシア人が植民を始め、シュラクサイ(現シラクサ)、アクラガス(現アグリジェント)、メッサナ(現メッシーナ)などの植民市を建設していきます。

また、さかのぼって紀元前12世紀頃からはフェニキア人が地中海交易をほぼ独占していました。

そしてフェニキア人はカルタゴを建国してシチリア島にも勢力をのばします。カルタゴは現在のアフリカ大陸北部のチュニジアを中心に、広く地中海沿岸を支配しました。

やがてシチリア島では、先住していたシクリ人などは勢力を失い、主としてカルタゴ勢力とギリシア人勢力が並立するようになります。

そしてシチリア島や西地中海の覇権をめぐり、数世紀にわたって戦争を繰り返します。

しかし、カルタゴ・ギリシアのどちらも、シチリア島を完全征服することは出来ませんでした。

アテナイ(アテネ)の介入

紀元前431年から始まったペロポンネソス戦争では、アテナイ(アテネ)がシケリア(シチリア)に介入を始めます。

そしてシケリア(シチリア)各都市は、「シケリア以外からは干渉されない」という方針の盟約を結びました。

ペロポンネソス戦争

アテネ中心の「デロス同盟」(イオニア系植民市)vsスパルタ中心の「ペロポンネソス同盟」(ドーリア系植民市)の戦い。

そのためアテナイはシケリア遠征をしましたが、スパルタがシケリアに援軍したので、アテナイは敗退しました。

共和政ローマ初の属州「シキリア属州」へ

紀元前311年になると、カルタゴが島の西側広くを支配下におさめます。

古代ギリシア人都市国家(シラクサ・メッシーナ)が島の東側に残った状態となりますが、シラクサ・メッシーナに関わるシチリア島内の争いによって、カルタゴと共和政ローマのふたつに援軍要請が送られます。

そして、共和政ローマはシチリアへ援軍を送ることを決定。これは共和政ローマ初の外征で、カルタゴの勢力拡大を阻止することが目的でした。

当初予想された通り、この戦いはカルタゴvs共和政ローマの戦いへと発展し、第1回ポエニ戦争(B.C.264-B.C.241)と呼ばれることになります。

「ポエニ」は、「フェニキア人」を意味する語から派生しています。

紀元前241年、ローマが勝利したことで、シチリア島はローマ初の属州「シキリア属州」となります。

海戦が主体となったこの戦いは、のちのローマ海軍の成立とローマの地中海支配へとつながっていきます

またこれ以降、シチリア島はローマにとって重要な食料供給源となります。

ゲルマン人の大移動の影響を受ける

シチリア島もまたゲルマン人の大移動の影響を受けます。

440年にはヴァンダル王国に併合されました。

ビザンツ帝国の影響下に

6世紀には東ゴート王国にも侵略されますが、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)によって2度にわたり奪還・征服されます。

535年にシチリアを奪還した皇帝がユスティニアヌス1世です。

ユスティニアヌス1世

ビザンツ帝国(東ローマ帝国)最盛期をもたらした皇帝で、ユスティニアヌス大帝とも呼ばれます。『ローマ法大全』の編纂も命じ、「ハギア・ソフィア大聖堂(アヤソフィア)」を建設しました。

トルコ共和国イスタンブールにある、ハギア・ソフィア大聖堂(アヤソフィア)
トルコ共和国イスタンブールにある、ハギア・ソフィア大聖堂(アヤソフィア)

アラブ人の侵入

シチリア島には7世紀から貿易も含めてアラブ人が侵入し始めます。

シチリア首長国

ビザンツ帝国に反旗を翻したシチリア島総督はムスリムに助けを求めました。

そして827年にはアッバース朝支配下のアグラブ朝(スンナ派)によって「シチリア首長国」が建てられます。

「ムスリム」とは

「ムスリム」とはアラビア語で「神に帰依したもの」という意味で、イスラム教信者のことをいいます。

イスラム勢力の支配化へ

9~11世紀、シチリア島はイスラム勢力の支配下におかれます。

10世紀にはスンナ派のアグラブ朝からシーア派のファーティマ朝に従属し替えますが、シチリア島ムスリムの多くはスンナ派でした。

ファーティマ朝のときに、パレルモでシチリア総督の反乱が起こります。

シチリア総督位の世襲化

反乱鎮圧のためにファーティマ朝から送られたカルブ家の血筋によって、シチリア総督位は世襲化され、カルブ朝へと移行します。

やがて外部干渉による継承問題から封建領主たちも争いを始め、シチリア島には混乱が訪れます。

神聖ローマ帝国を撃退

またシチリア島のムスリムは、982年の神聖ローマ帝国オットー2世のイタリア南部遠征に対しても攻撃を行い、これを破っています。

10世紀当時のイタリア半島の勢力
  • イタリア半島北部:神聖ローマ帝国
  • ローマ:教皇領
  • イタリア半島南部(シチリア島は除く):ビザンツ帝国(東ローマ帝国)

ノルマン人による両シチリア王国の建設

継承問題による封建領主たちの争いで混乱に陥っていたシチリアに、ローマ教皇の後ろ盾を得て、ロベルトとルッジェーロの兄弟が侵入します。

そして1091年にはシチリア島最後のムスリム拠点を陥落させ、シチリアを完全征服します。

そして1130年にはルッジェーロ2世によって、ノルマン人による両シチリア王国(シチリア王国+ナポリ王国)が建設されます。

神聖ローマ帝国による支配

ルッジェーロ2世の娘が神聖ローマ帝国(ホーエンシュタウフェン朝)ハインリヒ6世の后だったことから、1194年にシチリア王位は神聖ローマ帝国に渡ります。

1224-1239 フリードリヒ2世によるムスリムの追放・管理

アンジュー家による支配

1266年に教皇からシチリア王位の戴冠を受けたアンジュー家のカルロ1世は、1268年に両シチリア王国の王位に就きます。

シチリアの晩祷(晩鐘)

1282年には「シチリアの晩祷(晩鐘)」と呼ばれる事件が起きます。

アラゴン王シチリア王位獲得

「シチリアの晩祷」事件を経て、シチリア島はバルセロナ家のペドロ3世が獲得しました。

2つのシチリア

そしてシチリア王国は、シチリア島の領土と半島側の領土であるナポリ王国とに分裂します。

1302年にはシチリア島とナポリの間で2つの「シチリア王国」が並存するという和平が成立しました。

これらは「両シチリア」「2つのシチリア」と呼ばれることもありましたが、イタリア半島側の領土は「ナポリ王国」、シチリア島側の領土は「トリナクリア王国」と称するようになります。

単に「シチリア王国」というと、シチリア島側の領土を指します。

トリナクリア
トリナクリアはシチリアの象徴である「トリスケル」の別名で、「三角」を意味し、シチリアの形をさしています。

15世紀以降はスペイン系の王朝が支配

血筋が断絶したことにより、王朝はスペイン系に移行します。

スペイン継承戦争

1702年から始まったスペイン継承戦争では、シチリア島の継承権も争われることになります。

ユトレヒト条約

1713年にスペイン継承戦争の結果として、「ユトレヒト条約」によってサヴォイア家がシチリア王位を獲得します。

ハーグ条約

1720年、「ハーグ条約」によって、サヴォイア家とハプスブルグ家の間で、サルディニア島とシチリア島が交換されます。

そしてシチリア島はオーストリアの支配下に

1734 スペイン・ブルボン家がナポリ・シチリアを奪回

ブルボン=シチリア家による統治

1816年 両シチリア王国成立

シチリア王国とナポリ王国が統合され、両シチリア王国が成立しました。

イタリア統一運動

1860年、義勇兵からなる千人隊(赤シャツ隊)を組織したガリバルディが、シチリアで起こった反乱を援助して、両シチリア王国を滅ぼしました。

ガリバルディはシチリアをはじめ占領した地域を全てサルディニアに献上したため、大きな内乱などが起こることなく、ここにイタリア統一が完成しました。

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